サルビア姉妹

サルビア姉妹

0 ビュー
母に捨てられた姉妹と,娘を捨てた母親のそれぞれのモノローグに,何の関連もない若い女性達の日常の風景や会話がオーバーラップする。   ドキュメンタリを基調としながらも,物語はじわじわと浸食する。   アザの女,喪服の姉妹,自室でヌード写真を撮る女,などなど様々な女性が登場し非常に興味深いのだが,根底には緑川の個人映画に対する深い諦感が流れている。   < 作品解説 >   この作品で顕著なのは客観的であろうとする緑川の態度である。   前作でプライベートなテーマをどう表現すべきか悪戦苦闘した末に,ある種そこにイメージの塊を投げ出したかのような,ふてぶてしいやり方によって自己解決した緑川は,ここでは私映画の不可能性を問いかけている。そこに展開するのは数人の若い女性たちの日常会話であり,告白であり,苦悩であり,また無関係の通りすがりの女性達である。   この作品はある意味において緑川の日記映画と言うことも出来るかもしれない。しかし私たちは,父親違いの姉妹,娘を捨てた母親の不幸な娘時代のナレーションを,その前に確かに聞いたはずではなかったか......。   そしてまた,後半の電車のシーンにおける2人の女性の会話。いったい誰がサルビア姉妹なのか?とつまらないことを考えたくなってしまうが,<サルビア姉妹>は緑川の世界に於ける全ての女性達,と考えるのが妥当であろう。   ”語ろうとしたときに既に真実ではなくなるなだから 私にはなすすべもない” 緑川がテーマにしているのはまさにその絶望である。   喪服の姉妹,アザの女らが乗り合わせるどこかしら奇妙な電車のシーンは,後半で繰り返されることになるのだが,実はそこに登場する人物の衣装・髪形等は微妙に変化している。顕著なのはアザの女で,衣装が完全に(帽子、本までもが)違っているのだが,彼女が帽子を被り読書しているという記号において観客は同一視してしまう。我々が見たと思っているものも実は思い込みに過ぎないのかもしれないのだ。   この作品は観る者の安直な感情移入を拒み,既成のものの見方に強くゆさぶりをかけている。   緑川自身は自作の中でこの作品を一番気に入っているということである。

ランタイム: 36 数分

品質: HD

リリース済み: Jan 01, 1970

IMDb: 10

キーワード: